江戸時代、内藤忠政の三男内藤正次は別家を立て、当初500石からスタートし、家綱の傅役となって度々加増あって2千5百石、さらに5千石となった。子の内藤政勝(まさかつ)が1千石、さらに1万石を加増され、諸侯に列し、当初武蔵赤松に立藩した。正勝の子の正友の時、信濃岩村田に転封となって、岩村田藩が成立する。